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地形図で見る奥出雲 奥出雲のジオ 入門編6

地形図をながめてみよう

国土地理院 https://www.gsi.go.jp/
のサイトへ行き、地理院地図を見るをクリックすると、オンラインで2万5千分の一の地形図を閲覧することができます。以下、地理院地図を利用して紹介していきます。

  左上に表示される「地図を選択」をクリックすると地図の種類の選択画面が現れ、その中の「標高・土地の凹凸」をクリックし、「色別標高図」をクリックすると、陰影の強調された段彩図が表示されます。 

博物館周辺の地理院地図
標高・土地の凹凸をクリック
色別標高図をクリック

段彩図で見てみる

段彩図が表示された状態。「<」をクリックするとメニューが隠れる

 陰影で谷地形と尾根がわかりやすくなり、レーザー測量のデータが細かく得られている部分では、水田の棚田の段差などの細かい地形変化が明瞭にわかります。地図は博物館を中心とした周辺の地形ですが、山がちの部分と傾斜の緩やかな部分や平坦地の差がよくわかります。よく見ると不自然な形の緩傾斜の丘陵部分がわかるかと思いますが、これは人工的に改変された地形です。

 奥出雲町では砂鉄と木炭を使った「たたら製鉄」が行われていたことで知られていますが、この原料となる砂鉄は、山を削って水流による比重選鉱(大量の水で土砂を流すと軽い粒子は流されて重い砂鉄が残る。これを繰り返すことで純度の高い砂鉄を得ることができる)で採取する「鉄穴流し(かんなながし)」という方法で採取されていました。鉄穴流しは近世に入ると比較的大規模行われていたため、奥出雲町では地形改変の跡をあちこちで見ることができます。奥出雲の花こう岩は深部風化がすすみ、「マサ(真砂)」と呼ばれる人力で崩しやすい状態になっていることから、このような方法で砂鉄の採取が行われてきたわけです。


博物館から東の段彩図

かんな流しの生み出した地形

 
博物館周辺を見ると、山から伸びる稜線が所々で不自然に消えている場所がありますが、これが鉄穴流しの跡地です。わかりますでしょうか?

博物館近くに残る鉄穴流し地形

 A地点は北から延びてきた尾根筋が不自然に立ち切きられた形をしており、尾根の続きの先端がちょっぴり残った地形です。この残された部分を「鉄穴残丘(かんなざんきゅう)」といいます。両側の丘陵も不自然な緩傾斜がつくられており、これも鉄穴流し地形の跡地と考えられます。

A地点の様子
A地点の削られた部分

 A地点を西側から見た写真ですが、赤で囲った部分が鉄穴流しで削られた部分で黄色い部分が鉄穴残丘です。古くからのお墓や古墳、神社がある場所が削られずに残った場所が多く、良質な砂鉄が取れない、あるいは岩盤が固い場所も残丘として残されています。

博物館近隣の鉄穴流し地形

 博物館の周辺には鉄穴流しで地形改変された場所が多くあり、残丘部分にはお墓や祠が残っているケースが多くあります。
もうすこし広い範囲で見てみると・・・

布勢地区の鉄穴流し地形

 博物館の東側の2カ所の地域で、明らかに自然ではない緩傾斜な地形が広がっていますが、これはすべて鉄穴流しで作られた人工地形面です。尾根と谷の陰を中途半端に消しゴムで消したように見える部分が改変された地形です。さらに広い範囲で見てみると・・・・

奥出雲町の代表的な鉄穴流し地形

 布勢地区の東部にある亀嵩地域や東南東方向の横田地域(扉絵)では、さらに広い範囲で鉄穴流しが行われていたことがわかります。町境を超えた西比田地域や、この地図には載っていませんがさらに東部の県境を越えた鳥取県阿毘縁地域を始めとする奧日野地域にも広い鉄穴流し地形が広がっています。奧日野地域は奥出雲よりやや古い時代から良質の鋼を産出することが知られており印賀鋼(pdf)として知られています。また隣接する広島県庄原市の小奴可周辺でも大規模な鉄穴流しが行われた跡が残っています
 こうした地域は鉄穴流しに使われた水利がそのまま水田に利用でき、また平坦地が多く形成されることから棚田として生まれ変わりました。このように金属資源の供給地が農業地として生まれ変わる例は世界的にも珍しく(たいていは重金属などの影響で農地として利用ができない)、奥出雲のたたら製鉄と鉄穴流しからの転用された棚田と稲作は、日本農業遺産に認定されています。

たたら製鉄の生み出したもの

 このように中国山地の中央部で行われた、たたら製鉄のための鉄穴流しによって、山地を作っていた膨大な量のマサが削り取られ、川を通じて下流に流されたわけですが、流された土砂は下流に広い平野を作りました。斐伊川に流された土砂は簸川平野を、飯梨川に流された土砂は安来平野を、日野川に流された土砂は米子平野から弓ヶ浜半島を、高梁川に流された土砂は倉敷平野をつくりました。こうしてできた平野には多くの水田が作られ、安定した食糧供給の場となり、人口が集まる地域となった結果、豊かな生活や文化を生む場所として成長していきました。

 奥出雲は明治時代に入った最初の頃は、日本の鉄の大部分を生産する場所であったのですが、近代製鉄が行われるようになると、生産効率の低いたたら製鉄は次々と終業してゆき、大正時代にはすべて終わったとされていますが、昭和の時代、軍刀生産のために一時的に奥出雲町で復活しました。現在は日本刀の原料として使用される「玉鋼」を生産するために横田の日刀保たたらで行われています。

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